希望の性質 ⑷ 信じて目標にコミットする

文化によらない、信じる要素

アベリルらはアメリカと韓国の調査をまとめて、希望とは、宗教に関わらず行動に対する忠誠とコミットメントを維持する働きであると結論づけます。 [1]Averill, J. R., Catlin, G., & Chon, K. K. (1990). Rules of hope. Springer-Verlag Publishing. それは目標実現にむけて心理的資源をはじめとするさまざまな資源を集中する体制であると言い換えることもできると思います。

単に目標に堅く着くということだけでなく、掘削とは自分の現状を超える高い目標への傾倒であり、それに付随するものを掘り出していくことであり、それはより高次なもの、日常を超える何かしら超越的なものの実現を求める働きであると言えます。両国の希望の姿の違いは、その働きに自己を超えた存在への信仰が関わるか、自己内の潜在性という超越のみに求めるかという差異があるということでしょう。

そして往々にしてそれらの忠誠とコミットメントは常識的な疑いの目がある中で、持ち続けなければなりません。または将来の実現可能性が普通に見て低い状況の中で、あきらめずに目標に向かって粘り続けます。[2]Oettingen, G., & Chromik, M. P. (2018). How hope influences goal-directed behavior. In M. W. Gallagher & S. J. Lopez (Eds.), The Oxford handbook of hope (pp. 69–79). Oxford … Continue reading そうした中でコミットメントを持続する「信仰を保つ」よう指令するのが希望であるとアベリルらは言います。実際、まだ実現していないものを掘り出し、磨き、形に表すには、「出来るわけがない」という疑いを常時否定し、信じ続ける気持ちが必要であるわけです。それはまさしく一種の信仰ではないでしょうか。

この観点から言うと、希望の弱い現代の日本人は、大まかにいうならば、無難な日常に生きる選択を集団でしており、それを超える超越の実現を信じて求めるのが弱い傾向にあると言えるように思います。卓越したタレントを表すアスリートや棋士に賞賛を表すところはあるので、超越的なものへの憧憬はあるわけです。しかし憧憬はあっても信仰と行動をもって自らの内面掘削をしにくい、そのような超越的な目標に対してのコミットメントを持ちにくい。

国力の違いはそういう内面掘削や、超越を現実にもたらすことへの姿勢の結果でもあると見ることができないでしょうか。そうした超越への向かい方の違い、もしくは日常に表れる超越の有無の違いが力の違いであり、グラフの傾きの違いではないか。このことはたいへん根本的な質問であるとわたしは思います。

参照

参照
1 Averill, J. R., Catlin, G., & Chon, K. K. (1990). Rules of hope. Springer-Verlag Publishing.
2 Oettingen, G., & Chromik, M. P. (2018). How hope influences goal-directed behavior. In M. W. Gallagher & S. J. Lopez (Eds.), The Oxford handbook of hope (pp. 69–79). Oxford University Press.