浅い充実感(6)学習の充実感

学習の場での充実感

学習の場における充実感となると、英語を学ぶ大学生を対象に調べた調査では、内発的動機、達成目標を持っていること、の2つが充実感に結びついていることが見出されています。[1]Baygi, A. H., Ghonsooly, B., & Ghanizadeh, A. (2017). Self-fulfillment in higher education: Contribution from mastery goal, intrinsic motivation, and assertions. The Asia-Pacific Education … Continue readingこれはこれまでのページで触れてきた領域に関わることですね。日本の若者の充実感が低いということの理由を学校の場について考えてみますと、学校にあって生徒の自立・自信・主体性が低いことが考えられます。

まずこれには学校での授業のあり方も関係しているでしょう。国立青少年教育振興機構による「高校生の勉強と生活に関する意識調査報告書」(2016年) [2]http://www.niye.go.jp/kenkyu_houkoku/contents/detail/i/114/によると、アメリカに比べて東アジア3国(日本、韓国、中国)では教科書に従ってその内容を覚える授業スタイルが圧倒的に多く、その意味で受け身な授業となっています。その4国の中にあっても日本は個人で調べ、まとめ、発表する授業が最も少なく、グループワークでも同様です。また授業中の発言の少なさも際立っています。

受け身の教育では、内発的動機が伸ばされていないということになります。つまり、学ぶことのおもしろさから、自分でやりたくて学んでいるのではないという状況です。こうしたことから、主体的な学びを伸ばすために、アクティブラーニングが導入されてきたわけですが、現場でもこの重要性は受け止められているようです。

戸田忠雄氏は、学校には教師の側に独善的な権威主義、管理主義があり、それが生徒の自主性を奪っていると言います。その背景には、教師は生徒を前にして、自然に「君主」のようになってしまいやすい状況があると言います。戸田氏はこれに対して教師の自己批判、自己権力抑制が必要であると訴え、改善を見るためには、学校をもっと社会に開かれたものとし、生徒、親による匿名評価が必要であると主張しています。[3] 戸田忠雄(2015).「日本型学校主義」を超えて:「教育改革」を問い直す 筑摩選書

この本の最後の座談会の出席者が、その自主性を摘む同じモデルが企業にもあって、社員の自主性の成長を奪っているのではないかと話していました。もし小中高校が自主性を摘む場となっていて、冒頭から見ている若人の弱体化が進んでいる一因ならば、これは確かに変わらなければならない核心の一つと言えると思います。学校が国力を奪っているという話になるからです。

わたしの知る限り、教師を目指す人の中には高邁な熱意を持つ人が多くいます。これまでもそうだったはずです。それであっても、もし無意識に教師自身が権威的になっているのに気づかないような体制、戸田氏の言う学校、教師の「ムラ社会」の構成者になってしまう現状があるとすれば、その流れは変わらねばなりません。

また、充実感を感じるための要素③の使命感と達成というところで、勉強の場で達成目標が持てない状況がありそうだということも考えられます。つまり何のために勉強するかということが将来の探究、活躍や、社会貢献とあまり結びつけられていないということが言えるでしょう。

生徒が自主的に学び、将来を目指して進むのを支援するガイドとしての教育が目指されなければならず、そのためには、無意識に君主になったりすることのないように、人が他者と接する時の根本姿勢が問い直されなければならないとわたしは思います。

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参照

参照
1 Baygi, A. H., Ghonsooly, B., & Ghanizadeh, A. (2017). Self-fulfillment in higher education: Contribution from mastery goal, intrinsic motivation, and assertions. The Asia-Pacific Education Researcher, 26, 176-182.
2 http://www.niye.go.jp/kenkyu_houkoku/contents/detail/i/114/
3 戸田忠雄(2015).「日本型学校主義」を超えて:「教育改革」を問い直す 筑摩選書