「閉塞感」という言葉が使われるようになって久しいですが、この閉じふさがった感じ、また先の見えない感覚はなぜ起きるのでしょうか。この問いの答えは、まだ十分に解明されているとは言えません。出口の見えない長いトンネルの中にいるとき、いつまでこれが続くのだろうかと思うことがあります。このような気持ちを国民や個人が社会にあって感じるとしたら、それはどうしてなのでしょうか。
閉塞感をこの時代に感じているのは日本だけに限った話ではありません。国民により閉塞感を感じる度合いは違いますが、欧米でもお隣りの韓国でも似たような感覚はあるようです。
多くの場合に閉塞感には経済の状態が関係していると言えます。日本でも戦後の経済成長の勢いが止まった頃からこの言葉が頻繁に聞かれるようになりました。経団連のサイト[1]https://www.keidanren.or.jp/japanese/policy/vision/part1.htmlには、現状の日本について「国民が将来に自信を取り戻せない」状態と書かれています。当たり前のことではありますが、経済でなくても、「将来」への進展の見通しが弱いということが閉塞感には関係しています。
経団連は続けて国の政策のことについて触れていますが、その部分で「わが国の発展の潜在能力は、依然として高い。にもかかわらず、…国民の間に閉塞感が漂っている。」と表現しています。ここでわたしが特に注目したいのは、潜在し発展し得る能力はあるのに活路が見出せないと彼らが言っている点です。これは見方を変えれば、発展したい性質があるからこそ閉ざされていることを敏感に感じるとも言えます。これも閉塞感を理解するうえで見逃せない点だと思います。
しかし閉塞感というものは社会・経済の状況だけで生じるようなものでしょうか。将来への自信や、発展への潜在能力とは、個人のレベルでもそのまま当てはまる問題ではないでしょうか。
多文化研究者のホフステッド[2]Hofstede, G. (2001). Culture’s Consequences (2nd ed.), Sage publications. ; https://www.hofstede-insights.com/country-comparison/japan/は1970年前後から53の国と地域について調べ、日本は「不確実性の回避」という傾向が世界で最も高い国の一つと結論づけています。それは一言で言うと、将来どうなるかわからないような不確実な道には不安を覚えてこれを避け、安全性の高い道を選ぶ傾向が強いということです。言い換えれば成功への希望を持つよりも、失敗への恐れの方を持ちやすいということでもあります。その強すぎる安全志向は自分の周りに塀をめぐらし発展への道を閉ざす面もあると言えます。
実際、「希望」について研究する人々が口をそろえて言うことは、希望とはその不確実な状況や立ちはだかる障害物にひるまず道を見出す確信のようなものであるということです。将来が見えないときに不確実な状況は現代の世界のどこにもあるものですから、それに対してどのような姿勢をとるかということは個人や国民の性質によるところがあります。つまり「希望」は社会や政治家によってのみ無くなっているとは言えず、自分自身がその灯りをともそうとしているかということが関わっているのです。