はじめに(3)人の欲求の伸展と共有

もちろん、社会全体のレベルから見た閉塞についても考える必要があります。例えば世界でも見られる収入格差の問題です。株式市場でお金そのものを増殖する人々がいる一方、努力にもかかわらず必要を満たすのが難しい低所得者層が構造的な閉塞感の中にいます。これには教育の問題も関わっており、一方で社会全体の分配の精神の問題が絡んでいます。

しかし社会の分配を実現すると言っても、二十世紀以降の共産国の例でわかるように、共有の理想を第一に掲げる国家としての制度は結果的に強権を伴い、自由の問題が生じます。経済的に共有するということについては、自発性による支えがないと本質的に社会の閉塞が変わっていきません。

一方、消費者としての活動を見てみると、モノやサービスの消費意欲が拡大していかず、お金を貯め込んでいく現象が長く続いています。将来への不安、デフレのせいで給与が上がらない、などの理由の他に、先進国ではモノへの欲求が基本的に満たされ、一種の飽和を迎えているとの見方も多くあります。そうだとするとこれは企業の経営者や多くの労働者にとって確かに閉塞した状況です。

そのような中、ある人々は物質的な欲求を発露するだけでなく、お金とは無縁の精神的なものを求めます。ただ一方、宗教について言うと、歴史と世界の潮流としては、世俗化、すなわち現世的な満足を求める方向に進んでいるとされます。

これらの面について考えると、人の欲求の中で何が発展、伸展し得るのかしないのか、またそれらが伸展していくことで社会全体の閉塞は濃くなっていくのか、解消していくのかという根本的なことがらに思いが至ります。つまり希望を持って自発的であるという姿勢があれば閉塞はなくなるかというとそうでもなく、何について希望と自発性を持ち、どんな欲求を発展させるのかという内容自体も問わなければならないということです。

これはとても根本的なことがらであり、価値観の問題でもあります。上に書いたように、自己の物質的な満足の追求はそれ自体人々が際限なく拡大していくものでは必ずしもないということや、利己性の追求は必ず共有の問題を生じ、社会全体の閉塞を生むことになるということは明白です。かといって分配を優先する国家制度をとると、自由、自発性、活力などの問題による閉塞が生じます。個人が目標に向かって内発的な動機で伸展していくことと、社会全体の中で利益や資源を分配・共有していくことの二つは、相互に矛盾があっては閉塞を超えられないのです。

個人の自由と尊厳を求めたルネッサンス以降の近現代を振り返ると、個人の伸展と社会の共有の均衡は難しいものであったことがわかります。両者が自発的に行われ、しかも相殺することなく行われる方法はないものでしょうか。多様性と共有を強調することが一つの主流となっていますが、これはその解決をもたらすのでしょうか。これらの検証は新しい価値観の模索が続くこの時期にあって、重要なステップであると言えます。

このように閉塞を越えることを考えていくうえで、希望や自発性という姿勢の問題に加え、伸展する欲求と共有という価値の内容の問題が二重構造として見えてきました。これらの一つひとつの側面に焦点を当てて考察していく必要があります。この他に法や制度が閉塞を作り出す原因となっていることも多くあるでしょう。しかしこれらの形式は内実が変われば時と共に変化していく付随的なものとしてこのサイトでは捉えたいと思います。

上に書いた内容の検討はさまざまな観点から根本的な事柄、譬えて言うならコンピューターのOSに当たる部分に目を向けることを必要とします。また文化、社会、家族、心理、倫理、宗教、発達、人間関係など、ジャンルを超えて考えなければなりません。このサイトでわたしは、閉塞感を克服するというテーマのもとで、希望と自発性(正確には内発性)、「伸展」と「共有」を切り口とし、人の心理や人のあり方について考えて行きたいと思います。

七田 敏